Page5–「偶然のような必然」
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団長の独り言 2025.07.13
7月13日(日)「偶然のような必然」
参議院選挙の真っ最中。
あちらこちらで
選挙カーが走り回り、
政見放送が放送され、
各新聞やテレビニュースでは、
候補者の活動を紹介し、
SNSでも
選挙絡みの投稿が非常に多く、
否応なしにも「選挙の夏」を
実感するとともに、
個人的には、「あの時の夏」
を懐かしく思い出す。
あれは30年前の夏、
「新党さきがけ」公認候補として
俳優の中村敦夫さんが
参議院議員選挙に立候補をした。
私は敦夫さんの「付き人」として、
候補の傍にべったりへばりつき、
暑い中、汗をかきながら、
私なりにガムシャラになって
選挙運動に身を投じた。
政治には全く興味のなかった私が、
何故に参議院議員選挙で、
17日間汗を流す事になったのか?
それは私がプロの役者として、
お世話になっていた事務所の社長から
「中村敦夫さんが集団左遷という
映画に出る事が決まったんだけど、
お前も出演する傍ら、
敦夫さんの付き人として
付いてくれないか?」
という話が来たのが事の始まり。
事務所の社長は、元々敦夫さんの
マネージャーをしていた方なので、
そういう流れになったのだろう。
当時私は、プロの役者として、
数々の
テレビドラマにゲストとして出演し、
またアクション映画では
オーディションを勝ち抜き、
メインキャストとして出演もしたし、
舞台では新宿コマ劇場での
1か月公演に毎年呼んでいただき、
いわゆる「喰える役者」に
なっていたのだが、
そんな時に「付き人」の話が来た。
今更付き人?と一瞬思ったが、
付き人と言っても
「本編映画の出演」が絡むし、
その映画のプロデューサーの方とは、
昔からの知り合いで、
その方のお力沿いで、映画に
出させてもらった事もあったし、
なんと言っても、
我々世代にとっての大スター
「木枯し紋次郎」の付き人とあれば、
色々な勉強が出来ると思い、
二つ返事でオッケーした。
クランクインすると、
私は敦夫さんにつきっきりで
「出演者」と「付き人」の
二足の草鞋状態でガムシャラになった。
そして3か月くらい経ったある時、
深夜の東映大泉撮影所の控室で
敦夫さんが私に言った。
「この先、お前に
女房子供を飢え死にさせて
いい覚悟があるなら
役者を続けてもいいが、
その覚悟がないのであれば・・・
実はな、まだマスコミには
言っていないのだが、
俺は参議院議員選挙に出ようと思う。
国会議員というのは、
第一公設秘書、第二公設秘書に、
政策秘書というのがあり、
国から給料が支払われる・・・云々。
・・・お前に俺の第二公設秘書に
なってもらいたい」。
当時私は32歳。
3歳の長女に2歳の長男がいる。
かなり、いや相当動揺し、
あまりにも突然の話なので、
その場でお返事は出来なかったが、
私は敦夫さんの
人間的な魅力の虜になっていたし、
これも人生の流れかな?と思い、
政治の世界に
踏み込んでみる決意をした。
ただ私は政治の事なんて
全く分からない中での決断。
まず敦夫さんから言われたのは、
「新聞を取れ!」
「記事を読んで分からない事は
全て俺に聞け!」
だった。
その時は、まだ公示日の
2か月ほど前なので、
選挙運動こそやってはいないものの、
事前選挙的な活動は
すでに始まっていたので、
「付き人・平野君」は、
毎日、敦夫さんを乗せた車を運転し、
さきがけ系の各議員先生の方との会合や、
講演会等に駆けまわっていた。
その移動中の車内では、
新聞を読んでの疑問点を、
片っ端から敦夫さんに質問するのが
私の日課となるのだが、
最初に私が疑問に思った事が、
「参議院って何ですか?」
だった。
敦夫さんは、助手席でずっこける。
「そこからかぁ・・・・」
と大きなため息。
こうして公示日までの間、
移動時の車の中は、
「中村敦夫政治教室」となり、
私は何でもかんでも質問をしまくった。
新党さきがけの代議士や
地方議員の先生らと会う機会が多くなると、
必然的に各議員先生のスタッフの方々とも
仲良くなり、そんな「政治の先輩達」から、
「秘書の心得」みたいな事も
雑談の中で学んでいったのもこの頃。
その中に、ひときわ私に
良くしてくれる大物代議士の秘書、
Mさんがいた。
Mさんは、
私よりも数歳年下だったけれど、
明るくて行動も早く、
威張ったところは全くなくて、
そんな彼とはすごく気が合って、
会えば必ず笑顔で
私を迎え入れてくれたので、
いつも会話が弾んだ。
そのMさんの働き方や
考え方を手本にして
「秘書とは?」を学び、
あとは敦夫さんとの
「二人だけの勉強会」のおかげで、
私は「第二公設秘書」ぽくなってきた。
だから当選した暁には、
「Mさんを頼ろう!」
っと思っていたのだが・・・。
当選確実と言われていた
敦夫さんは落選。
敦夫さんも
相当のショックだっただろうけれど、
私も人生の目標が突然なくなり、
「呆然自失とはこの事か」
という経験をする。
今更「役者」って気持ちにはなれなくて、
32歳で人生に迷い、その後、
トラック・ドライバーやら
演歌歌手のマネージャーやら、
色々な事をしながら、
現在の職種にたどりついたのと
ほぼ同時くらいに、
敦夫さんが立ち上げた
「劇団東京クラブ」の
「ラッツ」という大蔵省の
官僚独裁を批判する芝居に参加した。
私は大蔵省のドブネズミ役(主役)を演じ、
その芝居出演をきっかけに、
様々な紆余曲折を経て、
劇団ふぁんハウスを立ち上げる事になった。
ただ・・・
足をあらったつもりの芝居に、
再び身を投じる自分に矛盾を感じたが、
あれよあれよで、劇団ふぁんハウスは
今年27年目となった。
そんな折、劇団ふぁんハウスは、
昨年より麻布演劇市のメンバーとなり、
今年に入って、その演劇市の改革に向けて、
右往左往する事になったのだが、
改革を共に行うメンバーでの中に、
元市議会議員の方がいらした。
その方は、劇団ふぁんハウス公演にも
足を運んで下さり、公演を終えた数週間後、
ゆっくりとお話をする機会が出来た。
最初は、
「初めまして」なんて挨拶を交わし、
麻布演劇市の改革についての
話し合いをしてきたのだが、
その方が議員を4期(だったかな?)
務めていた都市が、
敦夫さんの選挙の時に
すっごくお世話になった
大物代議士○〇先生の地元であったので、
「○〇さんが議員をやられた
○〇市のある地域って、
〇〇(代議士の名前)王国と
呼ばれたところですよね?」
とさらりと聞くと、
「私、議員の前は
その○〇(大物代議士)の秘書でした」
と言うからもうびっくり!
「えっ!!私、30年前の参院選で
中村敦夫さんの付き人でした!」
「えっ!もしかして『あの平野さん!』
「もしかして!『あのMさん!?』」
「そうですよ!」
となり、
なんとまぁ~30年ぶりに、
Mさんとの再会だったことが判明!!
そのあとは、当時の想い出話で
1時間近く盛り上がる。
人生って
こんな事もあるんだなぁ~。
今、劇団ふぁんハウスが
麻布演劇市で活動する上で、
Mさんの存在はとても大きく、
我々に強い影響を与えて
下さっているわけで、
あの時のご縁が、
ここに繋がっているのかと思うと、
私が経験した
「参議院議員選挙」っていうのは、
結果として劇団ふぁんハウスにとって、
意味のある事だったと実感する。
「意味のある事」と言えば、
今回の「綾部公演」もそう。
29数年前、自暴自棄の中始めた
演歌歌手のマネージャーの仕事で、
たまたま綾部に訪れた事が、
「ふたりのゆめ」の全ての始まりで、
そこから、色々な偶然が重なり、
四方源太郎先生とのご縁につながり、
今、我々は綾部の皆様と共に
「ふたりのゆめ綾部公演」
に向けて、一生懸命になっている。
人生に「もし」はないけれど、
「もし、あの時敦夫さんが当選していたら?」
「もし、演歌歌手が大スターになっていたら?」
劇団ふぁんハウスは当然無かったわけだし、
更には、
「もし、劇団ふぁんハウスを
27年間、続けていなければ?」
代議士の元秘書・Mさんとの再会も、
四方先生との出会いも、
もちろん綾部公演もなかった。
人生というのは、全て意味があるんだね。
そう思わずにはいられない。
偶然のようで必然だった
綾部と劇団ふぁんハウスの絆、
そして30年ぶりに再会出来た
Mさんとの絆を大切にして、
これからも劇団ふぁんハウスは、
信念を曲げず!ド直球で!
堂々と前を向いて進んで行きたいと
思うのでありました。


